主要年表

1204…ノルマンディー、フランス王領に(ノルマン・コンクエスト)
1215…ジョン王、マグナ・カルタを承認。
1216…ジョン王死ぬ。ヘンリ3世即位。(9歳)
1225…修正マグナカルタ確認。 
1234…托鉢修道士の十字軍勧誘活動盛ん。
1239…エドワード王子誕生。
1244…一番の家来、ロジャー誕生。
1245…兄ウォルター誕生。
1248…聖王ルイ、十字軍に出発(〜1254)
1249…アラン誕生。
1254…妹アリス誕生。
1257…アラン、老騎士ピーターの指導の下、騎士になる訓練開始。
1263…アラン、ペンブルック辺境伯の城に移り、騎士見習いとなる。ロジャーと出会い、修業に励む。
1265…シモン・ド・モンフォールの乱をエドワード王子が鎮圧。ロジャーは戦争に駆り出され、九死に一生を得る。アランとロジャー、エドワード王子の城へ移る。

1268…エドワード王子、十字軍の誓いを立てる(ノーサンプトン議会)。アラン、騎士に叙任。ロジャーを従者とし、騎士に叙任。
1270…エドワード王子、聖王ルイの誘いを受け、十字軍参加。アランも出征。ロジャーも従う。
1271…エドワード王子、パレスチナへ出航、5月9日アッコン上陸。
1272…エドワード、暗殺を逃れ帰国。アランとロジャー、帰国を逃す。ベネチア商人の助けを得てペルシア湾からインド洋へ。
1274…10月文永の役
1276…アランとロジャー、琉球に漂着。
1277…アランとロジャー、北条時宗と対面。
1279…南宋滅亡
1281…7月弘安の役
1284…北条時宗没(34歳)

朝廷と武士はなぜ対立するか

 江戸時代の石高制にも表れているように、コメは日本で長らく最重要の資源だった。「班田収授の法」「三世一身の法」「墾田永世私財法」「不輸不入の権」——こうした日本史のキーワードはすべて水田と産物の配分に関するものである。
 初期の水田は朝廷の所有物だったが、やがて重税のために耕作を放棄して逃亡する農民が続出した。一方で、許可なく水田を作って私有する者も現れる。水路を自前で掘削しなければならないので、新しい地主になるにはほどほどの財力を必要とした。
 土地を持たなくとも税が納められればよいので、朝廷も貴族もなし崩し的に開墾や耕作放棄地の再開発を許す。しかし、朝廷から派遣された徴税役人の横暴から、特に関東の新しい地主たちが反感を持つ。自分の土地を守るために武装した彼らは、地方に国司として住み着いた皇族の子孫を「頭領」として担ぎ、朝廷の役人と朝廷に結びつきの深い武士を攻撃した。
 頭領の一人、源頼朝は①源平合戦の戦功に対して、倒した敵(=同じく頭領であった平氏とその味方)の土地を与える②相続争い・境界争い等を公平に裁決するの2点に力を尽くし、関東武士の信頼を得る。
 鎌倉幕府の組織には当初、侍所・政所・問注所の各役所があり、このうち問注所とは相続や土地をめぐる訴訟を裁く。政所が決裁を文書化し、頼朝は必ず裁定に自ら関わった。

北条氏が台頭した理由

 頼朝が死ぬと、遺児たちにはそこまでの信頼が集まらず、初代執権に遺児たちの外祖父、北条時政(北条政子の父)が就任する。政子の弟の泰時は他の有力御家人の陰謀を巧みにかわし、2代目の執権に就任した。
 承久の変(1221)のきっかけは、親王の1人を三代将軍実朝(1219年暗殺)の次の将軍に迎えたいという幕府からの要望に、後鳥羽上皇がある条件を付けたことからだった。それは上皇の愛妾の所領に置かれた幕府の地頭を廃止することと配下の武士、仁科氏への処分撤回というもので、幕府の統治制度を踏みにじる内容だった。
 朝廷攻撃を躊躇する御家人達に対し、政子は「故頼朝殿の恩を忘れたか!」と説得する。これが鎌倉武士たちの朝廷への不信感を呼び覚ました。また、今回も必ず報奨があると信じさせるだけの実績が幕府にはあった(前項参照)。
 泰時の子、義時を総大将として機敏に対応した幕府は大勝利を収め、戦後処理も的確だった。天皇家や公家達から没収した荘園を幕府に味方した武士に分け与えたので「ご恩と奉公」の封建体制がより強固となる。特に、近畿の領地に鎌倉御家人の地頭を配した結果、広い範囲に幕府の支配を浸透させることになった。
 鎌倉幕府と朝廷との力関係はこれで決定的なものとなる。以降、朝廷は人事をはじめとする諸事をいちいち幕府に伺いを立てて行う。
 また義時は慣習法を成文化して争いの根を断つことを狙い「御成敗式目」を制定する。その主な中身は境界争い、相続、財産の保全等に関して具体的に事例を挙げ、処理法を明記するものだった。
 一方、幕府内部では義時以降、嫡流である得宗家が分家や他の有力氏族たちを着々と抑え込み、宝治の合戦(1247)によって北条得宗家がほぼ全権を掌握した。源頼朝没後、ここに至るまでに北条得宗家が中心となって攻め殺した主要氏族は梶原氏・比企氏・畠山氏・和田氏・三浦氏。
 本来は御家人たちの合議制であったはずの統治が、評定衆・引付衆を一族で固めることにより、得宗家の独裁へ。この流れを勢いづかせたのが元からの国書(1268)である。

時宗が戦う理由

 そもそも武士とは地方の農場主あるいは開墾農場主が土地を守るために武装したのが始まりだから、隙あらば他人の土地を狙うのはごく当たり前のこと。しかしそんな集団では危うくて蒙古対策に専念できない。幕府は得宗家に権力を集中させねばならなかった。二月騒動(1272)で庶兄の時輔が殺されたのはそういう事情も絡んでいた。
 長子である時輔本人が、弟の連署就任とともに六波羅探題へ追いやられた恨みを抱いていたのは当然だが、朝廷がこれに乗じ時輔をかついで反幕府の動きを起こしかねない。さらに幕府内に残存していた反得宗勢力の名越氏に利用される可能性もある。名越氏は北条一族だが創始者の朝時の代から反得宗の動きを見せていた。朝時は兄の義時が泰時の後を継いだのが面白くなかったとされる。
 名目だけの将軍である宗尊親王は鎌倉に下って十数年を経て25歳に成長し、形ばかりの将軍職に不満を持つようになってきている。ここへ「和歌の会」などとして御家人の一部が宗尊を囲む集会をもつなどの動きが露骨になってきた。
 1266年、執権の時宗、連署の政村、金沢実時、安達泰盛が4人だけで密談し、宗尊親王を京都に強制送還してその子の惟康親王を7代将軍に据える。このとき宗尊側近の名越教時が軍事行動を起こしかけたが、大事に至らなかった。
 6年後、時宗は時輔謀反に事寄せて名越氏を討つ。これが二月騒動。
 1269年ごろからの鎌倉の情勢について、金沢実時の息子が「ただ、薄氷を踏むがごとく候き」と述べている。名越氏が暗躍していたようだ。
 名越時章の筑後(福岡)・肥後(熊本)・大隈(鹿児島)の守護職と時輔の伯き(おいがしらに日)(鳥取)守護職は没収され、安達泰盛と、泰盛に賛同する一派の御家人たちが引き継いだ。異国警護の態勢を固めるためである。
 時宗たちは渡来僧や商人からモンゴル軍の暴虐を聞いていた。抵抗すればすべてを焼き払われる。従えば奴隷同然の生活が待っている。時宗はなんとしても自分たちの土地を守らねばならないと考えた。もう、誰かの言いなりになるのはごめんだ、と。
 朝廷の派遣した役人にコメをピンはねされ、力ずくで土地を削られ、地方の領主は生産力を高めることで何とか切り抜けてきた。鎌倉にも市が立ち、各地の産物が売り買いされる。いまや鎌倉にいながらにして都の美しい絹をまとい、饅頭や羊羹の甘みを楽しめる。真夏に富士山の雪を取ってこさせることだってできる。宋から来た銭が、もはや珍しくもなくなった。
 いまだに西国などには悪党がはびこってはいるが、宋人から聞くモンゴル軍の残虐ぶりはどうもけたが違う。
 和歌をよみ漢籍に親しみ、渡来の禅僧に師事する時宗は、モンゴルを信用しなかった。

北条時宗

仏教と時宗

 それまで貴族が信仰していた仏教は難解で、庶民の間には広まらなかった。庶民の信仰は伝統的な多神教だったが、源平合戦の前後から、庶民も心の支えを欲し、また僧たちにも庶民の救済を志す者が現れた。
 戦乱だけでなく地震、台風、疫病で命を落とす者も多い。農業生産力が発達し、生活に余裕ができると、道端に腐乱死体が重なって捨てられていく様子を見過ごせない感情や知性が勝ってくる。
 難しい経文や山奥の修業とは違う、わかりやすい教えに人々が集まる。大きく次の3系統がある。
①念仏を唱えれば救われる…浄土宗、浄土真宗、時宗(じしゅう)
②題目を唱えれば自分も社会も救われるが、それ以外の教えを信じると地獄に落ちる。天変地異、よからぬことが起こる…日蓮宗
③座禅を通して無の境地に至れば救われる…臨済宗、曹洞宗
 ①はとにかくわかりやすく入門しやすい。②は①に似るが、他宗を過激に否定する点が違う。③は宋からお茶や精進料理を伴ってやってきた輸入文化なので、お洒落で先進的な印象があり、開拓農民から成り上がって教養を求めはじめた武士階級の支持を得る。
 時宗も父の時頼も、渡来僧を丁重に迎え、教えを乞うた。一方、日蓮は蒙古からの国書が届く前に、外国からの侵入を受けると予言するが、時宗たちの心を動かすことはできなかった。宋の禅は統治者を積極的に認め、その保護下に置かれていたが、日蓮の主張は究極的にはすべての権力を否定する論理である。
日蓮は時政らに、他の宗教を退けて題目を唱えることで日本を救えと求めるのだが、それ自体が時政らの権力、影響力を認めていることにほかならない。
 関東の開拓農民の出自であった時宗は、八幡大菩薩や他の土着の神々、また太陽や月を畏れ敬っていたことだろう。日蓮を殺しはしないが、帰依する気は全くなかった。

フビライ=ハン

モンゴルの遠征① 中国方面

 チンギス汗がモンゴルの諸部族を統一した1206年には、中国は北方の金、揚子江以南の南宋、西域に近い西夏の三国が分立していた。まず西夏がモンゴルに屈し(1211)、ついで金がモンゴルに従属を求める使者を送って逆に首都を攻め落とされた(1215)。南へ逃げた金の王は西夏の残党と連携して抵抗するが、1234年に滅亡。
 チンギス汗は1227年に没していたが、後継たちは部族会議で金の次のターゲットは高麗と南宋であると確認する。高麗は(背後が海なので)逃げる先がなく、国土を「骸骨野を覆ふ」までに荒らされてモンゴルに屈服し、金銭、資源、労力、兵力を貢がされる。一方、南宋の王朝はより南方へと逃げて抵抗を続けた。またモンゴルは揚子江を自力で渡れず、南宋滅亡(1279)には時間がかかっている(河・海に弱いモンゴル軍)。
 モンゴルに仕える高麗人から日本と宋との関係を知り、モンゴルは日本に関心を持つ。日宋貿易で日本の資源や金銀が宋に流入しているのが宋の国力の源だとして、フビライ汗は日本を配下におさめようとした(日本への最初の国書は1268)。しかし宋は禅宗、水墨画、朱子学などを日本にもたらし、武士を中心に好意的に受け入れられている。鎌倉幕府は高麗・宋の属国化を図ったモンゴルを警戒した。

モンゴルの遠征②東欧・ロシア

 1221年、フワーリスム(現イランの地)国を滅ぼしたモンゴル軍の一隊は偵察の名目でコーカサス山脈を越え、第5次十字軍のために集結していたグルジア軍団を撃破した。さらにウクライナに進み、8万の兵を率いたキエフ公の襲撃を蹴散らして帰還する。
 1235年の部族会議で東欧・ロシアへの本格的な侵攻が決定した。1236年に始まった戦役はモスクワ→キエフ→ポーランド→ハンガリーを制圧してウィーンに向かったところでオゴタイ汗の死により1242年に引き返した。
 もしそのまま侵攻を続けていたら、いずれ聖王ルイと戦うことになったはず。
 モンゴルの目的は全世界制覇。敵地に斥候を放ち、敵情を研究した上で攻撃を加える。軍が通りやすいよう、あらかじめ道路を整備し河には橋をかけるなど、年月をかけて周到に準備をする。 
 抵抗した都市の住民は虐殺された。農民は畑を作らされ、作物を供出させられた。有用な技術(特に軍事的な)を持つ人材はモンゴルのために働かされた。

モンゴルの遠征③中近東

 1218年、フワーリスム国のシャーがモンゴルの通商使節団をスパイであるとして処刑した。チンギス汗はこれを理由に攻め込み、
主要都市の住民を大虐殺し、逃亡したシャーを衰弱死させた。これがイスラム圏への初めての侵攻。
 チンギス汗は続いてメルヴ、ヘラート等の年に軍を進め、住民ばかりか犬・猫までも殺した。「死体に残された頭はなく、頭のついた死体はない」とペルシア人の歴史家が書き残している。この遠征は1221年まで続いた。
 以後、1250年ごろまではモンゴル軍は高麗、南宋を攻める。4代目のモンケ汗のとき、イスラムの異端、アサシン教団殲滅にとりかかった。中国人の技師1000人を連れてきて投石器を操作させるモンゴル軍は、山に立てこもる敵を一人残らず殺した。
 正統イスラムはこれを喜んだが、モンゴルの国書に対等の傲慢な返書を出したことで今度は自分たちが攻撃を受ける。バグダッドはたちまち陥落し、モンゴルは宝石、金銀等、莫大な富を手に入れた。
(「人物表」中、「ムハンマド」の項にバグダッド陥落について述べてあります。ムスリムの商人ムハンマドはモンゴル軍の残虐さをつぶさに体験しました。拝見した草稿では「マルコ」となってますが…)
 このバグダッド陥落を歓迎したのが聖地奪還を望むキリスト教徒で(敵の敵=味方)、一時は連合してイスラムの都市を攻撃した。
 モンゴル軍は1259年にオゴタイ汗が死ぬといったん撤退した。この際、エジプトのマムルーク朝に追撃されて唯一の敗北を喫する。フビライ汗が1260年に即位。

モンゴルはなぜ遠征するか

 草原の遊牧民は草地をめぐって抗争を繰り返していたが、チンギス汗はそれらをまとめ、大汗となった。部族間の争いをおさえるためには新しい土地、新しい攻撃目標を用意するのが手っ取り早い。
 チンギス汗は戦争の天才だった。平時と軍事の両方を兼ねる組織を作り、集団の統率に乱れのない軍が成立した。侵攻して属国ができると、そこの軍隊を取り込み、最も危険にさらされる持ち場を与える。戦争の準備は周到で、工兵隊、弓隊、投石隊等、目的別の兵を揃え、馬による情報伝達も迅速に行った。
 軍隊という厳しい生活が、彼らの場合は騎馬による遊牧と狩の日常生活とあまり変わりばえしないものだったかもしれない。

フビライの目指したもの

 祖父チンギス汗が遊牧の民の頭領だったとすれば、フビライは土地に定着し物流で利益を得て、モンゴル人の都市を構える権力者であろうとした(多くの兄弟、従兄弟、伯父たちの大半はフビライの路線に好意的ではなかった)。
 フビライはイスラムと宋・高麗などから文化人や商人を集め、モンゴルに役立つと考えたものはためらわずに取り入れた。その結果、大都(現北京)は国際都市となり、天津への運河を通じて海と直結された。
 フビライは銀との兌換紙幣を発行し、また主要な道路に馬による伝令を設置する。一方で中国の伝統的な官僚制を採用し、チンギス汗の得た広大な領土の維持発展を図った。
 フビライの死後、明が興ると大都を捨ててモンゴルは北方の草原へと帰っていく。西方(イラン、ロシア・東欧、中央アジア)にはチンギスの息子と孫たちの建てた国々が残った。


国書の意図

 フビライが直接的に求めていたのは宋や高麗と交流の歴史がある日本との交易であったろう。
 それに加えて、長年にわたって攻めあぐねてきた南宋の息の根を止めるためには、日本から南宋へのモノとカネの流れを断ち切り、また中国沿岸の航路を押さえたかった。
 日本が大陸の情勢をよく知らないとは思えず、自分の手紙が黙殺されるなどとは予想していなかったのではないか。
 かといって、対等の国交を望んではいなかったろう。あくまでモンゴルが世界の中心であり、優位に立った上での友好。このあたりが、侵攻と略奪の歴史を背負ったフビライの限界ではなかったか。
 
参考『モンゴル軍』新紀元社、『蒙古襲来』吉川弘文館、『北条時宗』吉川弘文館

十字軍の歴史

①巡礼者の苦難
 バンベルク(バイエルン地方の町)の司教ギュンターが聖地への巡礼を思い立ったところ、彼の司教区や近くの司教区からそれなら自分たちも一緒に行きたいという「王侯、貴族、富者、貧民」がわれもわれもと出てきて、その数およそ1万2000人にものぼった。この大集団は途中さしたる支障もなく、1065年の春ごろにはパレスティナに安着した。エルサレムに向かって進むにつれ、まもなくやってくる復活祭を聖都で祝いたいという気持ちが巡礼者たちの疲れを忘れさせた。
 聖金曜日には、彼らは目的地までせいぜい2日ぐらいのカエサレアとラムラの中間あたりに到着していた。そのとき突然ベドウィンの一体が姿を現し、疲労困憊した人々の頭上に雨あられのごとく矢をあびせる。巡礼者たちは、病人や女子供をのせていた荷車を大急ぎで楯代わりに並べて身を守るしか術がなかった。大半の人たちは武器を携帯しておらず、少数の人々だけが「戦うことを余儀なくされた」と年代記は記している。巡礼の精神を殉教にまで拡大して身を守ることを拒否した人々もいた。しばらくして人々は一人の司祭の懇願を受け入れ、武器を捨ててアラブ側と和議を講ずる決意をした。しかし虐殺はこの日聖金曜日から復活祭までも続き、やっとそれが終わったのも矢が尽きたためか、殺すのにあきがきたか、あるいはもはや目ぼしい獲物がなくなってしまったためかであった。
 長旅の危険はこのような具合で、人々は出発前からそれをよく知っていた。
 
②1095年、クレルモン宗教会議で教皇ウルバヌス2世が行った演説
・十字軍の必要性
 東方のあなた方の同胞から今まで幾度となく懇請されてきた救いの手を、いまや緊迫の状況ゆえに大急ぎで差し伸べねばならないのです。その理由はあなた方の多くが既にご存知のようにトルコ人とアラブ人がわれわれの東方の同胞を攻撃し、ローマ帝国の領土内である「聖ゲオルギウスの腕」(ダルダネル海峡)と呼ばれる地中海の沿岸まで進出してきたからです。さらに彼らはキリスト教国に奥深く侵入し、七度のいくさで同胞を破り、あるいは殺し、あるいは多くを捕虜とし、教会を破壊し、国中を荒らしまわっているのです。
もしもあなた方が何もしないで彼らのなすがままに任せておけば、彼らはさらに多くの神の忠実なるしもべに災いを及ぼすでありましょう。
 だからこそ私はあなた方にお願いするのです。否、私が願うのではなく、キリストの使者であるあなた方に神が依頼されるのです。富める者も貧しき者も力を合わせ、あなた方の同胞の国から即刻にあのけしからぬ奴らを追い払い、キリスト教徒である兄弟たちに時を得た助力を与えていただきたいのです。今ここにご参集の皆さんには私から口頭で申し上げます。ここにおられない人々には、後ほど布告を通じて知らせましょう。いずれにしてもそれをお命じになっているのはキリストであります。
・赦免
 かの地に行く者は、陸上であれ海上であれ旅の途中で命を落としたり異教徒との戦いに果てることがあっても、その者の罪はその瞬間に許される。神より授けられた権限により、私はそれを保証する。
・その他の特権
 (十字軍参加者の財産は、留守中は教皇の保護下に置かれるので、教会の財産と同様不可侵の対象となる。訴訟を起こされているもは遠征中はそれを停止する)
・結び 
 これまで邪な心でキリスト教徒と私闘を繰り返していた者たちは異教徒に戦いを挑みなさい。そしてずっと以前から始まっていたはずのこの戦いを勝利で飾りなさい。今まで野盗を働いていた者はキリストの兵士になりなさい。同胞や縁者と争っていた者は、当然の義務として野蛮人相手の戦いに参加しなさい。汚い金を得るために傭兵を務めた者は今度は永遠の報酬を勝ち取りなさい。心身を傷つけ疲弊しきった者は、心身両面での報いを求めて努力しなさい。
(以上、レジーヌ・ペルヌー、福本秀子訳『十字軍の男たち』より)
 

十字軍の簡潔な歴史 

 第一回の十字軍は1096年にコンスタンティノープルへの現地集合で始まり、1097年ニカイア奪還、1098年アンティオキア占領、1099年エルサレム占領を果たす。
 フランスを中心に、西欧各地から正規軍と女子供を含む民衆軍が集まり、最終的にはフランスの諸侯がエルサレム占領。
 1187年、サラディンによってエルサレムは奪い返され、第3回十字軍が遠征するが失敗。(リチャード獅子心王とサラディンの休戦協定成立)
 以後の十字軍はエジプトを第一の標的とする。1248〜54年にルイ9世の第6回十字軍、1270年に同じく第7回の十字軍。このときエドワード王子に従ってアランも出征した。

十字軍の意義

侍「いったいなんであんたらは、そんなに大金をはたいてエルサレムとやらへ行くのかね?」
アラン「僕たちキリスト教徒にとって、エルサレムというのは、この世にあって自分の足で踏みしめることのできる天国なんだ。なぜならキリストが確かにそこで生き、十字架につけられて死に、そして蘇った場所だからだ。僕たちはその同じ土にこの手で触れたい。砂の一粒といえども、他の土地と同じではない、聖なる砂なんだ」
侍「ははあ、それを持って帰って小袋に詰めりゃ、いい値段で売れるんだな?」
アラン「自分で行って自分の指ですくうことが大事なんだよ。イスラム教徒はそうした巡礼のキリスト教徒から法外な通行税を取ったり、武器もない人々を捕まえてエジプトの奴隷市に売り飛ばしたりする。僕たち騎士はそんな野蛮人から聖地を取り返さなくちゃいけない。キリスト教徒が誰でも安心して聖地巡礼できるように。神がそれを望みたもうのだ」
侍「俺たちの神さんはそこらにいる。わざわざ都まで願をかけに行くやつなんかおらん。そもそも坂東武者の守り神は八幡大菩薩ゆえ、鎌倉で事足りる」
アラン「神はただ一人だ。天におられる主だけが僕らの神。他のものを信じてはならない」
侍「わからんな。キリストも神だろうし。ま、いいさ。日本でも仏の教えの新しいのが次々と都からやってきてる。近ごろじゃあ日蓮という坊さんが鎌倉殿に——」
アラン「あんたたちのほうこそ、ハチマンとかホトケとか、どれがほんとの神なんだ?」
侍「どれも本物さ。何だっていいじゃあないか。拝んでれば、守ってくれるんだから」
アラン「そんないい加減な——」
侍「待てよ。その日蓮も、自分の教え以外はみんな邪教だから信じてはならぬといってるそうだ。案外、あんたらと似てるのかもしれんな。ふふふ」

遠征中の食事風景

 砂地で火が熾されていた。ロバの背から下ろした薪が運ばれ、焚き火が四つ拵えられる。大鍋をかける火と肉を焼く火とがそれぞれ二つずつ。屠られたばかりのヒツジが切り分けられ、串刺しとなってぽたぽたと脂を垂らしはじめた。じゅわっという音と香ばしい香りがアランとロジャーのたたずむ岩陰にも届く。
「今日はヒツジか」
「ニシンよりいい」
「そうか? 塩漬けの魚のほうがうまい」
「たしかに、肉にもっと塩気が効いてればいいんだけど」
「エルサレムには塩も胡椒もたっぷりあるだろうよ」
「新鮮な果物も」
「うーん」
 ロジャーは舌なめずりした。
「ブドウと、メロンが名物だそうだ」
「金がいくらあっても足りない」
 従者の一人が来てアランの前にひざまずいた。
「お食事がととのいましてございます」
「ご苦労。ありがとう」 
 アランとロジャーは従者の後について食卓に移動した。板切れに布をかけただけのテーブルで、騎士たちの食事が始まる。ロジャーが木のボウルにとりわけられたスープの匂いをかいだ。
「結構だね。スパイスがよくきいてる。毎日タマネギでも、俺は満足だ」
 ロジャーは木のかけらだかパンだか判別がつきかねる塊を取り、スープにどっぷり漬ける。汁気を吸ったそれが心もち膨らんだ。どうもパンのようだ。向かいに座った髭面の騎士が小さなナイフで肉を切っては指でつまんで口に運んでいる。
「今日の肉は新しい。たっぷり食わんと後悔するぞ、ロジャー」
「そう慌てずとも、次の町まであと十日ほどですぞ。その折には水ではなく、神の与えたもうたワインでうまい肉をいただきましょう」
「十日どころか、明日のことは誰にも分からぬ。われらは日ごとに敵地に近づいているのだから」
 一人の小姓が捧げ持っていた指洗い用のボウルを砂地に転がした。一同がしんと静まった。
「これは、粗相をお許しください」
 小姓は蒼ざめた唇を震わせた。
「野蛮な異教徒どもを恐れてどうする。一人前の騎士には永遠になれぬぞ」
 髭面の騎士は不興げに言った。異教徒だが野蛮ではない、とアランは心の中で呟く。
 ビザンチンでは、人々は古代の学者の本を学び、神学の他にもにもさまざまな学問があると聞く。病の治療法、塔に登らなくともその高さを測る方法。投げつけると触れるものを焼き尽くす火。異教徒らにもそんな学問を修めた者が多いそうだ。彼らは太陽や星を仰いで本を書き、図面をひくとか。野蛮人となめてかかってはいけない。
 恐れることと怯惰とは似て非なるものだ。僕なら小姓を叱りはしない。